Tuesday, July 5, 2016

発言者としての地位



あなたの家に二人の来客が泊まっていると想像してみてほしい。ゲスト1は、あなたの家の上っ面のしつらえや様子にやたらと好感を示す。しかし翌日になるまでもなく、あれこれ文句を言いだす。彼はあなたが用意する食べ物や、家具の選択や家族の日課が気に入らない。彼はあなたの家のいくつかの習慣に欠点を見いだし、彼が育った家庭の習慣を取り入れるべきだと主張する。その一週間後、彼は何事もなかったかのように自分の家に帰っていく。ゲスト2は、あなたの家庭や家族をもろ手を挙げて敬愛する。あなたのライフスタイルを取り入れるために、自分の流儀を踏み外す。ふとした運命の導きで、彼はあなたとずっと住むことになる。彼はあなたの家庭にまつわる人々とうまくやっている。職業を持ち、経済的に貢献する。基本的に、彼は家族の一員だ。暫くしてから、彼はあなたの家庭内の事柄をどのように改善するかについて、提案を申し出るようになる。

日本の外国人(ガイジン)コミュニティーには、保守派と革新派、二つの陣営が存在する。前者は文
化を敬愛し、その保存を望む。後者は日本を何かにつけ進展遅れとみなし、より西洋化させる道を模索する。そこで私が見るに、どちらの陣営も国外居住者ではなく移民とならない限り、確固とした社会的発言権はない。国外居住者は、社会に没入しない。彼は数年を楽しみ、そして我が家へと帰る。移民は深々と関わる。彼は永住の心づもりである。カルチャーに馴染み、言語を学び、子供をそこで育て、キャリアを築き、税金を支払い、しばしば市民権や投票権を得る。彼は”自己資金投資の賭けをしている”と言えるだろう。このような理由から、生粋の市民は彼の見解に一目置き、国外居住者のことは概ね気にかけない。

これは国外居住者や一時ビジターにとって、フェアでないだろうか? もしもあなたがアメリカ人革新派であれば、中東や南アメリカの移民がアメリカにやってきて、声高にホモセクシャルの違法や宗教教育プログラムへの政府資金増額を訴えたら、どう感じるだろう? おそらくは、節度がないとわかるはずだ。「そんなに自国の文化が好きなら、さっさと国に帰ったら?」と考えるだろう。そこまでは思わないにしても、アメリカ世論がこんな侵入者をひたすら無視することを望むに違いない。

国外居住者には意見する権利がない、と口に出している人はいない。誰しも一度は来客になった経験がある。私にもフロリダの叔母のクレイジーなアパートでの一夜のあと、彼女のライフスタイルについて「目一杯」の意見があった。ただそのどれもが命に関わるものではなかったし、それゆえ自分の考えはしまっておいた。同様に、国外居住者は何を思ってもいいし、望む形で自分の見解を言葉にしてもいい。けれど、彼は土地の文化をそれほど知らないこともままあり、その視点は単に自国の文化に慣らされた好みの現れにすぎないので、人は彼を相手にせず、その存在を平気でスルーする。対照的に、移民は第二の故郷の文化を、必要上それなりにディープに掘り下げている。彼は故国からバケーションで訪れているのとは違う。新たな故国を築きつつあるのだ。その地により精力を注ぎ込み、周囲から影響を受けることもより多いので、彼の見解は一考する価値があるものになる。

日本の社会は、日本国民が日々生きて選択を重ねるとともに自然と進化していく。この国に意欲的に関わり、発言適格者としての地位を手に入れた外国人は、この進化を形作る立場を獲得する、と私は考える。革新派に対する私のアドバイスはこうだ。「もしもあなたに社会でのまっとうな発言権がないなら、人々に注意を払わせる資格を得たかのごとく振る舞うな。もしも確固とした発言権を持っているなら、『他の国はこうだから、日本もこうするべき!!』といった事実にのみこだわるのではなく、変わることで物事をいかに具体的に良くするかという方法論にフォーカスしろ。」保守派に対しては、こう言いたい。日本的だからという理由だけで、日本文化のいかなる局面をもやみくもに擁護するのはやめろ、と。日本を含め、すべての文化は進化し変容し、ときにそれはより良い方向へと向かう。どのバトルを戦うか、取捨選択せよ。保存するに値するもの・ことにフォーカスせよ。